呪縛の残像 八 物資不足と戦後の困窮
呪縛の残像 八 物資不足と戦後の困窮
戦後日本の暮しは極端に不足し、極貧状態で国民全体が、その日の食事に事欠く日々が続いた。
育ち盛りの子供児童は欠食児童で栄養状態が悪く「栄養失調」と言われ配給の少しの品と「買い出し」で得た僅かな食べ物でその日その日を過ごした。
小学校に行っても身体測定で「栄養失調」と記入される児童も多く、歯科の検査では虫歯の子供は流石に居なかったようで、虫歯になるほど甘い物など食する事のない当時の事情を窺わせるものである。
後年知ったことだが、この年は大正、昭和を通じて大凶作で敗戦後の日本に追い討ちを掛ける試練であった。
水産物の漁獲量も少なく、理由も当然船舶も軍事用に重用され、漁船にまで手が廻らなかったのだろう。
日本の農水産物は働き手が戦地に徴用され、空襲などの戦況で日本自体が存亡を掛けて死の物狂いの戦いの最中、復興に浮かび上がってくるものは、食料品の調達であった。
何も食料品だけの欠乏で治まらず、資源の燃料や生活必需品から、医薬品まで欠乏しこの年に全国的に「天然痘に発疹チフス」が蔓延して言った。
衛生状態も悪く、栄養失調で体力も落ち、戦後十年間は流行性疾患は次々流行し何千人単位で死亡者が出た。
戦後直後の食糧事情は、戦争の傷跡と荒廃した農地に天候異変と追い討ちを掛けた。
日本人は粗食に、質素に「代用食」に苦心をした。
今日繁栄を築いた日本は,豊食に無駄な食生活に、浪費され三分の一の食材が使用されず捨てられているという。
戦後直後は無駄なく効率よく食べられ、草パンといって不味い物から、芋のつるの薄皮をむき、野に生えている植物を食用に替えていった。
調味料などは手に入らず味気ない食事だったように覚えている。
都会に住む人々は簡単に手に入らず、配給も滞りがち、そこで闇の物資、闇市が繁盛するのだが、それでも日々の暮らしに欠かせない食料品は、人伝、聞き伝で無烏孫に向かって貴重な着物、金品で食料品と交換しに行くのだった。
食物も米飯などは滅多に食った事は無く、代用食として芋〔薩摩芋、ジャガイモ〕などや小麦粉を団子状にして、関東では水団、関西では雑炊と言って水分の多いもので空腹を満たすが直ぐに,腹ペコになる、たまに米が手に入れば、僅かな米に水で薄めた粥で流し込むのである。
その後配給米が世間に出回った時などは、ご飯として炊くのは四分六か三,七と言って米が少量で麦が負い部分を占める。
それでも上出来、米の味に満足したものである。
不思議と一緒に炊くと米が沈み、麦が浮き、満遍なく混ぜて食べたものである。
麦は腐り易く、プーンーと独特の麦のにおいがするものである。
国は代用食として薩摩芋を奨励してと様で、蒸したり焼いたりして食べたもので、多く収穫できるように、品種改良に「農林一号」と言った風に代用食の開発に取組んでいたようである。
食料品の輸入も外貨不足の日本、アメリカの食糧援助「脱脂粉乳」が児童の栄養失調解消に一役買っていたが、飢えた日本の子供たちにとても満足させるだけのものが調達させる事はできなかった。
特に趣向品は贅沢品として、なかなか庶民には手に入らず、裏から手を回して手に入れたり,ヤミの流通で手に入れていた。
酒、タバコなどの習慣性のものは、なかなか辞められずあの手この手として、得ていたようだが、酒などは醸造自体米不足で芋焼酎が庶民の身近な酒類で、それでも手に入らなければ、工業物のメチルアルコールを薄めて飲んでいたようで、親戚の叔父も酒好きでメチルアルコール中毒で危うく一命を落とす所、失明する人は後を絶たず記録によれば多くの死亡者を出したと記されている。
タバコなどは刻みタバコが、まだまだ主流でキセルで詰めて一服か二服で煙を出して終わりだが、紙巻きタバコもピース、光などは高嶺の花、ゴールデンバットは庶民が吸えるタバコだったと覚えているが、それも刻んだものを買って簡単なタバコ巻き機餓あって器用にくるくる巻いて端をノリつけをしたものである。
それもすい残しの人が捨てたものをリサイクルしたものが,「モク拾い屋」の再生タバコである。
棒の先に細い針のようなものを付けて落ちているタバコを着き差し脇の袋に入れ、持ち帰ったものを、もう一度タバコに作り変え売ることを生業としていた人も結構多かったようだ。
呪縛の残像 七 父の復員後の暮らし
呪縛の残像 七 復員
父の後日談である、復員は昭和二十一年十月であるがその当時の頃の事はおぼろげながら覚えている。
戦後歌謡に「帰り船」の歌詞のように、日本に帰りたい、戦地で終戦を迎えた時から誰もがよぎるものは帰国である。
*戦地に散った兵士の数は200万将兵と言われ、シベリアのように帰国の交渉は難航し,抑留はは長期に渡り非人道的な扱いで多数の兵士が故国の土を生まず無念のもいで死んで逝ったもの多く、日本人に於いては走れることのできない史実である。
私が小学5年生くらいの時にも帰国された兵士の方を近鉄駅からそこのお宅の家の前まで小さな小旗を振って、長い列を作って迎えたことを思い出す。
戦死と言う誤報で子供を抱えて再婚し、長年を経て生存が知れて帰国、再開を果たしたがどうにもならない、悲劇や5,六人子供を抱えて暮しに困窮したり、空襲で両親を失った戦災孤児は数知れず、今ではそういった話は風化して知る人もない。
因みに第二次世界大戦で日本が戦地拡大で兵士、軍属、民間の人々の残された人々の数は下記の通りである。
中国ソ連など軍人が300万人、民間300万人が苦難の引き上げに帰国を待った。
中国に163万に満州に127万人、朝鮮半島に92万人、東南アジアに71万人,台湾に48万人、フィッリッピン、インドネシア、オーストリア、などに合わせ600万人の復員兵、民間人を帰国させなければならなかった。民族の大移動である。
その頃の人口は日本の人口は7215万人であった。
父の復員船は、航路を東シナ海を通り日本が見える付近で船員よりあの島影が日本だと教えられた時は船が傾くかと思われるほどに片側に帰還兵は島々を見つめたと言う。
広島の宇品港に船は着岸し検閲を済ませた後、僅かな金と身の回りのもを支給されて、家族の住む所に向かった。
空襲で荒れ果てた故国を見てさぞ驚いたであろう。父は実家の家には寄らず母方の信貴山の麓の村に向かったと言う。
どうして知ったか父の帰国を知っていたらしく、そのことを教えられても私には訳が分からず、後日談ではあるが、父は村の散髪屋で身を整えて、戦争での垢とひげをそり落としてたらしいが、二歳上の姉は散髪屋に言って父の鏡に映った顔を見て「とうちゃん」と飛びついたそうだが、私はそうもいかなかった。
大阪に近い町に住まいに戻って暮らし始めたが、見覚えのない父には私はなつけない、復員した父も働き場所が無く随分苦労をしたと言う。
そこで又母方に実家で一時身を寄せて暮らすことになり、一つの家に三所帯がすむ寄り合い所帯が始った。
そこで小学二年生に成るまでの4年間を暮らすことになるが、都会にない自然おなかで村の人々に混じり河内の人情と風土に触れながら両親、姉、妹の5人と部屋で区切られた同居の母方の弟夫婦に母の伯母と息子の大所帯で泣き笑いの暮らしが始った。
戦地から帰って来たものは、世情の変化についてゆけず髄分苦労したようだ。
また商売するにも混乱期、日本の国民の価値観が一変し、物資不足と復興の最中戦後基盤ができていない中、成り行き任せのようなもので有ったのだろう。
復員した直後は友人を頼り、求職活動をしていたらしく、旧陸軍刑務所の同僚を訪ねて言ったそうだが、そんな給料では妻、子共三人とは養っては行けないし、家の間借り状態ではどうにもならなかった。
同僚の再就職は一般に刑務所か警察官は試験なしで採用されたそうだ。
河内の麓の村で落ち着いた父は昔の洋服の仕立てを思い付き、その道を選択、まずは道具集めからで、仕事の注文は近所の服の修理寸法名をし、自分の生まれ育った布施の町まで注文をとりに廻った。
戦後間もない頃の事、洋服(紳士服)を作りあつらえる人なぞ居るわけも父が考え出して始めたのが「背広の裏返し」と言うやつで、洋服は一生物(いしょうもの)大切にしたものだが年月の経過と共に色あせてくる、そこでバラバラに解き裏を表にして仕立て直す「背広の裏返し」なる仕事を引き受けていった。
その仕事は気の遠くなる根気の入る仕事だったが生活費の捻出も出来ない時代、注文をとりに町まで出かけていかなければならなかった。
この時代は農家の方が裕福で金取り物々交換で、都会に住むものは、その日の食う物に困窮する日々「買出し」といって遠方まで出かけ一日がかりで米イモなどを買い付けに、引き換えに着物などを持って行き商談し、丁々発止の駆け引きがあって、純な農村の人達も結構「したたかな」やりとりをし都会対農村の関係が流通の要として機能して行った。
父の洋服の注文も時期によって全くといっていいほど無く、昔覚えた家業の「井戸かえ」を引き受けていった。
井戸は何年か経つと、井戸底が詰まったり、水の湧きが悪くなるので、水をかい出し、空にして中を掃除をすると、また元のように綺麗でコンコンとして水が湧いてくるもので、その作業は非常に危険で、現在でも土木作業で地中掘削で無酸素状態で死亡することがある、子供ながらに心配そうに井戸の現場を心配そうに見ていた。
家業の井戸掘りに一時でも携った経験からか、ロウソクに火を灯し慎重に井戸の底に、安全を確めると井戸底を掃除、水捌けの良くなるように、汲み上げる桶に入れては上にかいだし、最後に鯉、鮒を入れる。
何年後かに井戸掃除にはその鯉、鮒を食べるそうであるが、日光が足らないので成長が遅いと父は言っていた。
戦後間もない信貴生駒山麓風景は実にのどかな風景が広がり、河内弁が飛び交う人情有る村々であった。
また戦争の痕跡として信貴山の麓、堅下、恩智、高安辺りには東高野街道に沿ってパックと口をあいたような、飛行機の格納庫が8,9個が残っていて、近鉄電車に乗るとそれが良く見えた。
今の八尾飛行場は大田の飛行場といって軍事用の飛行場が有ったが、まだ大阪の大都市を守るためか東高野街道沿いに滑走路を作り戦争備えていたのか、実際には使用されずに、戦後20年くらいは残っていたように記憶をしている。
呪縛の残像 六 社泉寺の暮しと父の不在の職場
呪縛の残像 六 終戦時の暮しと父の不在の職場
この話は主に母から聞いた話である。
出征し戦地で地獄を彷徨っていたころ、若くして幼子を抱えて二十歳そこそこの母が苦難の連続であったらしい。
金も物資も手に入らない頃は、姉を父方に預け、私とは母は母方に世話になる日々が続いていたらしい。
一時信貴山の麓の実家に身を寄せていた。
母は7女なので上の姉に食料品など支援してもい袋一杯に物を貰っていたことを思い出す。
時には大阪に近い町で商売として、万年筆製造をしていた伯母の所から融通してもらい,万年筆の行商を工場などの門前で売っていたという。
母の実家に身を置き大変、村の地域の人々には大変せわになったものである。風呂に入れて、もらったり、他人の子を自分の子のように大切に扱われた。
国難の時こそ子共守ろうとゆう意識が生まれたのだろうか、町では田舎に疎開先がなければ、学校からの集団疎開があったらしく5,6歳上の先輩たちの苦しい思い出話など聞かされたものである。
3歳の頃の話でうっすらと覚えている話に、疎開先の小高い丘に大阪市内が望める高台に、母に抱かれて村の人達と不穏な雰囲気の中、、下手の大阪平野を眺めていた光景を思い出す、西の空が低く赤く点在し、火の粉が舞い上がっているように見えた。人々は「うーん、うおー」とうなりに似た悲痛な声が聞いたことを覚えている。
特に母方の女姉妹は大阪に嫁ぎ。疎開をしている者にとり、自分の家の付近の燃え盛る光景を見ればただ事でないものがあった。
幼心に、あの赤く燃える大阪の町々の炎は、脳裏にくっきりと刻み込まれた呪縛の残像は忘れられない。
* 昭和20年3月13日23時から未明の3時25分まで3時間半に渡り行なわれた。B29爆撃機、274機が来襲。米軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草。次いで42機が大阪上空に達した。夜間低空爆撃機として約2000M低空からの一般家屋を狙った夜間攻撃であった。
港区市岡の照準点に投下した爆弾は大火災を引き起こし、続いてテニアンからの107機が爆撃。浪速区塩草を更にサイパンからの124機の爆撃機が北区扇町から西区阿波座付近が大火災になり、3987人の死者と678人の行方不明者を出したと言う。
山を挟んで奈良県や亀山盆地辺りまで、火災が山の向こうから夕陽のように見えたという。
空襲は時々電車をも止めてしまい、大阪のしんせきに行って帰り、空襲に遭い同時に電車が止まり、止む得ず幼い私と母が2駅分歩いたことをぼんやり覚えている。
留守を守る母に取り、陸軍刑務所からもらう支給や手当ては冷淡で、後日母から聞いた話であるが、物資の支給はもらえず、悔しい思うをしたと言う。
刑務所に勤務するものが優先されて、いち早く物が手に入ったと言う。
「お父さんは戦地で命がけで行っているのに・・・・」と愚痴をこぼしていた。
あるとき現物支給があって、早く行かないともらえない情報があって、急いで行ったそうだ。
二人の子度を抱えて苦労の事務所の者に強烈に訴えて行ったそうだ。それではと米一袋の支給分を手にいれ、今になってどうゆう風にもって帰ったか覚えていないと振り返る。
昭和20年には戦況も厳しく、空襲が頻繁に襲来する世になって行き、疎開先では母方の親戚へ従兄弟などが身を寄せてくるようになってきた。空襲警報が鳴って、あるとき7,8歳も年上の従兄弟は畑や山道を歩いていて艦載機と言って、紀州沖の空母から発進した日飛行機は大阪の工場など部分攻撃と偵察や、爆撃機編隊の護衛機などの帰りの航路に辺り、通過のついでに攻撃をして帰るのだ。
艦載機は帰艦に燃料タンクは邪魔になるので河内の上空で落下させてゆくのである。
従兄弟の姉など艦載機に狙い撃ちにされ畑を逃げ回ったと言う。
爆撃機にせよ艦載機にせよ向かえ打つ日本の防衛の高射砲隊は応戦したが玉が届かずすいすいと飛んでいく中、中には命中するものがあった。
飛行機に命中した国民は爆弾の投下で苦々しく思っていた所に落下傘で舞い降りた米兵を見て飛び上がって喜んだのかもしれないが、その米兵の落下傘で降下し降伏する、その処理に後日問題になることになった。
戦場であれば敵味方に分かれて捕虜の扱いもあるが、国内での米兵の扱いは基本的に有っても終戦間際の事、陸軍刑務所自体が混乱をしていた。
河内地方に落下した米兵は降伏、警察が捕獲しその処理を陸軍刑務所に託した。
止むに止まれずの収監ではあったが、その時の上京は母が語ってくれた。いよいよ日本自体が敗戦の色濃く、降伏の時期の予感が過ぎり、それまで監獄に収監されている囚人の処理に、何時釈放知るか、米軍の検問が予測されてはまずいので全ての処理は処分しなければならなかった。
そこに米兵の捕虜、降って湧いた難問に米兵を秘かに処刑をしてしまった。
ところが終戦と同時に米軍のMPが捜索を始めこの陸軍刑務所に嫌疑がかかり、調べにやってきて検問が開始された。
当初、しらんぞんじず押し通したが、意外な所から発覚した。
米兵たちは何時か処刑されると察知したのか収監されている収監されている部屋の隅下に自分のイニシャルを書き込んでいたのである。
MPは目ざとく見つけ説明を求めて自白し他看守たち、この事件に関わった看守、職員は軍事裁判で裁かれ巣鴨刑務所に収監されたという話、もし血気盛んな父のこと戦地に出征がなかったら、巻き込まれていただろうなと、母も父も語っていた。
この話は主に母から聞いた話である。
出征し戦地で地獄を彷徨っていたころ、若くして幼子を抱えて二十歳そこそこの母が苦難の連続であったらしい。
金も物資も手に入らない頃は、姉を父方に預け、私とは母は母方に世話になる日々が続いていたらしい。
一時信貴山の麓の実家に身を寄せていた。
母は7女なので上の姉に食料品など支援してもい袋一杯に物を貰っていたことを思い出す。
時には大阪に近い町で商売として、万年筆製造をしていた伯母の所から融通してもらい,万年筆の行商を工場などの門前で売っていたという。
母の実家に身を置き大変、村の地域の人々には大変せわになったものである。風呂に入れて、もらったり、他人の子を自分の子のように大切に扱われた。
国難の時こそ子共守ろうとゆう意識が生まれたのだろうか、町では田舎に疎開先がなければ、学校からの集団疎開があったらしく5,6歳上の先輩たちの苦しい思い出話など聞かされたものである。
3歳の頃の話でうっすらと覚えている話に、疎開先の小高い丘に大阪市内が望める高台に、母に抱かれて村の人達と不穏な雰囲気の中、、下手の大阪平野を眺めていた光景を思い出す、西の空が低く赤く点在し、火の粉が舞い上がっているように見えた。人々は「うーん、うおー」とうなりに似た悲痛な声が聞いたことを覚えている。
特に母方の女姉妹は大阪に嫁ぎ。疎開をしている者にとり、自分の家の付近の燃え盛る光景を見ればただ事でないものがあった。
幼心に、あの赤く燃える大阪の町々の炎は、脳裏にくっきりと刻み込まれた呪縛の残像は忘れられない。
* 昭和20年3月13日23時から未明の3時25分まで3時間半に渡り行なわれた。B29爆撃機、274機が来襲。米軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草。次いで42機が大阪上空に達した。夜間低空爆撃機として約2000M低空からの一般家屋を狙った夜間攻撃であった。
港区市岡の照準点に投下した爆弾は大火災を引き起こし、続いてテニアンからの107機が爆撃。浪速区塩草を更にサイパンからの124機の爆撃機が北区扇町から西区阿波座付近が大火災になり、3987人の死者と678人の行方不明者を出したと言う。
山を挟んで奈良県や亀山盆地辺りまで、火災が山の向こうから夕陽のように見えたという。
空襲は時々電車をも止めてしまい、大阪のしんせきに行って帰り、空襲に遭い同時に電車が止まり、止む得ず幼い私と母が2駅分歩いたことをぼんやり覚えている。
留守を守る母に取り、陸軍刑務所からもらう支給や手当ては冷淡で、後日母から聞いた話であるが、物資の支給はもらえず、悔しい思うをしたと言う。
刑務所に勤務するものが優先されて、いち早く物が手に入ったと言う。
「お父さんは戦地で命がけで行っているのに・・・・」と愚痴をこぼしていた。
あるとき現物支給があって、早く行かないともらえない情報があって、急いで行ったそうだ。
二人の子度を抱えて苦労の事務所の者に強烈に訴えて行ったそうだ。それではと米一袋の支給分を手にいれ、今になってどうゆう風にもって帰ったか覚えていないと振り返る。
昭和20年には戦況も厳しく、空襲が頻繁に襲来する世になって行き、疎開先では母方の親戚へ従兄弟などが身を寄せてくるようになってきた。空襲警報が鳴って、あるとき7,8歳も年上の従兄弟は畑や山道を歩いていて艦載機と言って、紀州沖の空母から発進した日飛行機は大阪の工場など部分攻撃と偵察や、爆撃機編隊の護衛機などの帰りの航路に辺り、通過のついでに攻撃をして帰るのだ。
艦載機は帰艦に燃料タンクは邪魔になるので河内の上空で落下させてゆくのである。
従兄弟の姉など艦載機に狙い撃ちにされ畑を逃げ回ったと言う。
爆撃機にせよ艦載機にせよ向かえ打つ日本の防衛の高射砲隊は応戦したが玉が届かずすいすいと飛んでいく中、中には命中するものがあった。
飛行機に命中した国民は爆弾の投下で苦々しく思っていた所に落下傘で舞い降りた米兵を見て飛び上がって喜んだのかもしれないが、その米兵の落下傘で降下し降伏する、その処理に後日問題になることになった。
戦場であれば敵味方に分かれて捕虜の扱いもあるが、国内での米兵の扱いは基本的に有っても終戦間際の事、陸軍刑務所自体が混乱をしていた。
河内地方に落下した米兵は降伏、警察が捕獲しその処理を陸軍刑務所に託した。
止むに止まれずの収監ではあったが、その時の上京は母が語ってくれた。いよいよ日本自体が敗戦の色濃く、降伏の時期の予感が過ぎり、それまで監獄に収監されている囚人の処理に、何時釈放知るか、米軍の検問が予測されてはまずいので全ての処理は処分しなければならなかった。
そこに米兵の捕虜、降って湧いた難問に米兵を秘かに処刑をしてしまった。
ところが終戦と同時に米軍のMPが捜索を始めこの陸軍刑務所に嫌疑がかかり、調べにやってきて検問が開始された。
当初、しらんぞんじず押し通したが、意外な所から発覚した。
米兵たちは何時か処刑されると察知したのか収監されている収監されている部屋の隅下に自分のイニシャルを書き込んでいたのである。
MPは目ざとく見つけ説明を求めて自白し他看守たち、この事件に関わった看守、職員は軍事裁判で裁かれ巣鴨刑務所に収監されたという話、もし血気盛んな父のこと戦地に出征がなかったら、巻き込まれていただろうなと、母も父も語っていた。
呪縛の残像 四 父志願兵としてビルマ作戦に
父志願兵としてビルマ戦線インパール作戦に
昭和十八年は年の暮れ、10ヶ月の私と3歳になる姉と母を残し戦場に趣いた。
戦況は厳しく日本に取り、勝利の展望がないままの兵士の派兵であった。
この悲惨で凄惨な戦いは、日本戦争史上例を見ない敗戦と失策であった。
この戦場の体験は何年もかけて家族に、特に長男の私に語り伝えたかったようである。
その一つ一つの戦場の記憶の出来事を思い出しながら書き綴ってみたのが「呪縛の残像」の中の一遍である。
昭和十八年の年末に広島は宇品港に、日本各地から戦地に趣く兵士が集結し、インパール作戦に投入されんとする兵士の中に、父は居た。宇品には家族に合わせる宿舎に最後の別れに成るかも知れない思いに各地より面会のもの多くその、心情は思い余りてある。
母は小さな子供を抱えて広島にまで行って、面会など思いも拠らない事で、二人の子供の子育てと今後を考えれば不安が募る思いであっただろう。
ビルマ戦線の記録を見れば昭和17年の3月にはビルマ(ヤンゴーン)に結集しインパール作戦が挙行された。
首都ラングーンから北上、コヒマから古都マンダレーに向かうものだったと言っていた。
道路と言う道路はなきに等しく、山岳沿い、チンドウイン川、サルウイン川、イラワジ川の三本の川沿いに北上したらしく、総兵力8万6千人が投入された。武器、弾薬食料などは補給の見込みは無かっただろうが、机上の作戦が先行し現場の意向は無視され続けたと、多くの学識者や帰還兵の証言で明白になっている。インパール作戦は中国の奥深くにある、中国の重要拠点重慶を叩き攻撃するにビルマからの攻撃に意味があったと父は言っていた。
ビルマに派兵されるにしても戦況は制空権も海洋権もママならず、良くも目的地のビルマに到着できたものである。
ある人のビルマ戦記では仙台から広島の宇品港から出航、10隻の護送船に護衛艦が2隻、周りは米の艦船、目的地までに2隻の護送戦が到着、後は撃沈か引き返したそうで、直接目的のラングーンに行かずに、ベトナクのサイゴン、プノンペン、バンコク。ビルマに到着したそうだが、私の父は直接ラングーンに寄港出来たと聞いている。
兎も角、戦地に着くだけでも危険にさらされる不利な戦況だったようだ。
戦地ビルマに着いてまずは日本に比べれば道路事情は牛馬の通り様な地道、父はビルマの奥地古都マンダレーに向かわなければならなかったが、それ以上にジャングルの環境が日本軍の前進を阻んだ。
投入された兵力9万人分の武器、弾薬、食料の輸送は思いの他、進まなかった。
道路の悪さ以上に雨期,乾季の自然障害の悪さである。
父は常々言っていた。
ビルマ人に日本人に対する友好は計り知れず、顔立ち要望も似ていて、欧州人の植民地に抑圧され虐げられ、見下げられていた経緯上、日本人に対する理解は深く、強力は惜しまなかったと言う。
山岳地方に住む刺青を入れた、カレン族に仲良くないカチン族は日本に兵にも宿泊をさせてくれたり、食料を提供しくれたそうである。
またシャン族もいて昔は美人の事を「シャンやな」と言ったらしく、シャン高原でタイ地方にかけての種族ときいている。
そんな状況で何より日本軍と敵英国軍の違いは武器,装備、食料品、物資の豊かさで、戦況が深まるにつれ思い知らされる事になる。
皇軍日本兵は優秀で律儀で、統率が取れていて、律儀で上官の命令を良く守り戦ったと良く言っていたものだった。
それが敗戦への傷を深める事になった。
武器に勝るイギリス軍に真正面からの交戦は不利で、ジャングルなど山岳地帯での戦場となって、敵味方の区別がつかないサンドイッチ状態の中、敵のイギリスは危険を犯しても攻めては来なかった。
大砲等の火器で十分攻撃をしてからの日本軍の侵入で占領するやり方で、その大砲、銃撃の雨あられの中、小隊長だった父は11人の部下を随えて行進中に一抱えもあろうかと思う大砲の弾が、「ブルーン、ブルーン」飛んできて着弾、後ろ振り返って誰も居なく、塹壕に向かって走ったが走れない、大腿部に被弾、出血と痛さに周りを見渡した所、衛生兵が駆けつけてくれ、応急の手当てしてもらった。
当時を振り返る。
「衛生兵の一本の注射がなければ死んでいた」
火薬の毒を緩和し化膿止の薬だろう。一命を取り留めたと言っていた。
所が戦場では完全な治療は出来ず、砲弾の破片は残されたまま、帰国して日々の生活に苦しめられ、そんな治療する術も、国も復興に手が廻らず、2.30年経ってから国立病院で調べて1・五センチの砲弾の破片が入っていて、筋肉の中に入っているので取り出すと歩行に障害が出ると木で花をくくったような対応、傷慰軍人手等のみで、国鉄の年に一回の使用券のみで何の保証もなかった。
生前中は「わしが死んだら砲弾を取ってみてくれ」と常々言っていた。
平成八年に亡くなって荼毘に伏されて遺族全員固唾を呑んで砲弾の破片を取り出して、為気ともうなりともつかない声で眺めたものだった。
今、我が家の仏壇の中に収めてある。
戦地の話に戻るが、栄養失調に不衛生な湿地帯には馴れない日本人は次々に伝染病が襲った。
戦傷が癒えぬまま次ぎに襲ったのは風土病と言うべき、マラリアであった。
行軍の物資運搬に軍馬12000頭、ビルマ牛30000頭、象1030頭徴用された。
ビルマ牛は進むに連れての食料用に併用する計画だったが、結局戦場に邪魔になったり飼育の餌の確保が出来ず余り活用は出来なかったようだ。
それらのビルマ牛の関わりに一命を取り留めたと語っていた。
それは戦況は敗走の一途の中、マラリアに感染、身動きの取れない状況で戦友に背負われる事は行軍は考えられず、ビルマ牛に背負わされる事、2ヶ月間戦友に助けれ南下し、たまたま拠点に遭遇した陸軍刑務所時代の同僚に助けられ野戦病院で回復した事を「俺は幸運だった」と振り返る。
戦場は主にジャグルを中心,雨期ともなれば手の施しようもない、休戦状態になり、三本の大河、イラワジ川を中心に、西にチンドウインク川、東にサルフイン川があって、その大河を渡らなければならなかったと言う。
湿地帯の日々の戦場暮らしは大きな蛭に血を吸われ、毒蛇や毒草に注意を払わなければならなかった。
戦傷,伝染病、それにも増して餓死なのである。
靖国街道とも白骨街道とも言われた、道の標識がないが連綿と続く、日本兵の死骸をたどれば迷わず目的地、マンダレーに行けた死の道が出来ていた悲惨な戦いであった。
着る物、生活必需品のないものは遺体の持ち去らなければ、明日は自分がミイラになる過酷な状況だったという。
父は夜夢で、戦友の銃弾で戦死の様子や、声を掛けようとして近寄って見て、ウジ虫が遺体中に涌いている状態に唖然としたという。
終戦の知らせを聞いて,投降し捕虜となる。
戦況はイギリス人に武装解除で終結を迎えた。
内心、ホット下に違いがない。
事あるごとに「イギリス人は紳士てきや」と言っていた。
下士官だった父は将校の部屋付きになり,親切で欲しい物は何でも手に入り、ジャングルでやせ細った父は、捕虜では飽食にふっとって、タバコは新品をわざと捨てる、
あるとき「手榴弾」がほしいと言った。
「それを拾ってすったもんや」
川で爆破させて魚を取りことを告げると、あっさりくれたと感心していた。
捕虜の日本人との信頼関係がなければ、そんなことはありえない話である。
過酷な戦場から開放され日々のんびりし暮らしに帰国の日が迫ってきた。
イギリスの将校は別れを惜しみ、住所を教えろと言った。
そこで木を記念になる物を刻み、裏に多分帰国すると妻と二人が待つ母方の住所を刻んだそうである。
だが父が生存中には連絡は来なかったが、父はその将校に感謝をしていた。
帰りの復員船に心が弾んだが、大切に飼っていた「手乗りサル」現地のビルマ人に上げたそうである。
インパール作戦での8万600人参加で戦死者32000人戦死、ほとんどが餓死、40000人近い兵士が病気気味だったという。それも赤痢、マラリアに栄養失調だったという。
如何に過酷な戦争か窺い知れる。インパール作戦の大きく関与し陸軍のエリートと言われた牟田口中将戦後、その責任を問うことは無かったにせよ、大きな史上稀に見る無謀な戦争の責任は,亡くなって祖国日本の地を踏めず無念の思いで散っていた、兵士の英霊に道義上の責任は免れず。末代までその責を問われるだろう。
父の話は事あるごとにビルマ戦線の地獄絵図のような有様を必至でせめてわが子にだけは伝えたい、そんな気持ちで言い伝えたのであろう。
戦後60年余りを戦争の記憶は薄れて、記憶から薄れ克明に覚えている人も少なくなる一方、風化されつつある。
昭和十八年は年の暮れ、10ヶ月の私と3歳になる姉と母を残し戦場に趣いた。
戦況は厳しく日本に取り、勝利の展望がないままの兵士の派兵であった。
この悲惨で凄惨な戦いは、日本戦争史上例を見ない敗戦と失策であった。
この戦場の体験は何年もかけて家族に、特に長男の私に語り伝えたかったようである。
その一つ一つの戦場の記憶の出来事を思い出しながら書き綴ってみたのが「呪縛の残像」の中の一遍である。
昭和十八年の年末に広島は宇品港に、日本各地から戦地に趣く兵士が集結し、インパール作戦に投入されんとする兵士の中に、父は居た。宇品には家族に合わせる宿舎に最後の別れに成るかも知れない思いに各地より面会のもの多くその、心情は思い余りてある。
母は小さな子供を抱えて広島にまで行って、面会など思いも拠らない事で、二人の子供の子育てと今後を考えれば不安が募る思いであっただろう。
ビルマ戦線の記録を見れば昭和17年の3月にはビルマ(ヤンゴーン)に結集しインパール作戦が挙行された。
首都ラングーンから北上、コヒマから古都マンダレーに向かうものだったと言っていた。
道路と言う道路はなきに等しく、山岳沿い、チンドウイン川、サルウイン川、イラワジ川の三本の川沿いに北上したらしく、総兵力8万6千人が投入された。武器、弾薬食料などは補給の見込みは無かっただろうが、机上の作戦が先行し現場の意向は無視され続けたと、多くの学識者や帰還兵の証言で明白になっている。インパール作戦は中国の奥深くにある、中国の重要拠点重慶を叩き攻撃するにビルマからの攻撃に意味があったと父は言っていた。
ビルマに派兵されるにしても戦況は制空権も海洋権もママならず、良くも目的地のビルマに到着できたものである。
ある人のビルマ戦記では仙台から広島の宇品港から出航、10隻の護送船に護衛艦が2隻、周りは米の艦船、目的地までに2隻の護送戦が到着、後は撃沈か引き返したそうで、直接目的のラングーンに行かずに、ベトナクのサイゴン、プノンペン、バンコク。ビルマに到着したそうだが、私の父は直接ラングーンに寄港出来たと聞いている。
兎も角、戦地に着くだけでも危険にさらされる不利な戦況だったようだ。
戦地ビルマに着いてまずは日本に比べれば道路事情は牛馬の通り様な地道、父はビルマの奥地古都マンダレーに向かわなければならなかったが、それ以上にジャングルの環境が日本軍の前進を阻んだ。
投入された兵力9万人分の武器、弾薬、食料の輸送は思いの他、進まなかった。
道路の悪さ以上に雨期,乾季の自然障害の悪さである。
父は常々言っていた。
ビルマ人に日本人に対する友好は計り知れず、顔立ち要望も似ていて、欧州人の植民地に抑圧され虐げられ、見下げられていた経緯上、日本人に対する理解は深く、強力は惜しまなかったと言う。
山岳地方に住む刺青を入れた、カレン族に仲良くないカチン族は日本に兵にも宿泊をさせてくれたり、食料を提供しくれたそうである。
またシャン族もいて昔は美人の事を「シャンやな」と言ったらしく、シャン高原でタイ地方にかけての種族ときいている。
そんな状況で何より日本軍と敵英国軍の違いは武器,装備、食料品、物資の豊かさで、戦況が深まるにつれ思い知らされる事になる。
皇軍日本兵は優秀で律儀で、統率が取れていて、律儀で上官の命令を良く守り戦ったと良く言っていたものだった。
それが敗戦への傷を深める事になった。
武器に勝るイギリス軍に真正面からの交戦は不利で、ジャングルなど山岳地帯での戦場となって、敵味方の区別がつかないサンドイッチ状態の中、敵のイギリスは危険を犯しても攻めては来なかった。
大砲等の火器で十分攻撃をしてからの日本軍の侵入で占領するやり方で、その大砲、銃撃の雨あられの中、小隊長だった父は11人の部下を随えて行進中に一抱えもあろうかと思う大砲の弾が、「ブルーン、ブルーン」飛んできて着弾、後ろ振り返って誰も居なく、塹壕に向かって走ったが走れない、大腿部に被弾、出血と痛さに周りを見渡した所、衛生兵が駆けつけてくれ、応急の手当てしてもらった。
当時を振り返る。
「衛生兵の一本の注射がなければ死んでいた」
火薬の毒を緩和し化膿止の薬だろう。一命を取り留めたと言っていた。
所が戦場では完全な治療は出来ず、砲弾の破片は残されたまま、帰国して日々の生活に苦しめられ、そんな治療する術も、国も復興に手が廻らず、2.30年経ってから国立病院で調べて1・五センチの砲弾の破片が入っていて、筋肉の中に入っているので取り出すと歩行に障害が出ると木で花をくくったような対応、傷慰軍人手等のみで、国鉄の年に一回の使用券のみで何の保証もなかった。
生前中は「わしが死んだら砲弾を取ってみてくれ」と常々言っていた。
平成八年に亡くなって荼毘に伏されて遺族全員固唾を呑んで砲弾の破片を取り出して、為気ともうなりともつかない声で眺めたものだった。
今、我が家の仏壇の中に収めてある。
戦地の話に戻るが、栄養失調に不衛生な湿地帯には馴れない日本人は次々に伝染病が襲った。
戦傷が癒えぬまま次ぎに襲ったのは風土病と言うべき、マラリアであった。
行軍の物資運搬に軍馬12000頭、ビルマ牛30000頭、象1030頭徴用された。
ビルマ牛は進むに連れての食料用に併用する計画だったが、結局戦場に邪魔になったり飼育の餌の確保が出来ず余り活用は出来なかったようだ。
それらのビルマ牛の関わりに一命を取り留めたと語っていた。
それは戦況は敗走の一途の中、マラリアに感染、身動きの取れない状況で戦友に背負われる事は行軍は考えられず、ビルマ牛に背負わされる事、2ヶ月間戦友に助けれ南下し、たまたま拠点に遭遇した陸軍刑務所時代の同僚に助けられ野戦病院で回復した事を「俺は幸運だった」と振り返る。
戦場は主にジャグルを中心,雨期ともなれば手の施しようもない、休戦状態になり、三本の大河、イラワジ川を中心に、西にチンドウインク川、東にサルフイン川があって、その大河を渡らなければならなかったと言う。
湿地帯の日々の戦場暮らしは大きな蛭に血を吸われ、毒蛇や毒草に注意を払わなければならなかった。
戦傷,伝染病、それにも増して餓死なのである。
靖国街道とも白骨街道とも言われた、道の標識がないが連綿と続く、日本兵の死骸をたどれば迷わず目的地、マンダレーに行けた死の道が出来ていた悲惨な戦いであった。
着る物、生活必需品のないものは遺体の持ち去らなければ、明日は自分がミイラになる過酷な状況だったという。
父は夜夢で、戦友の銃弾で戦死の様子や、声を掛けようとして近寄って見て、ウジ虫が遺体中に涌いている状態に唖然としたという。
終戦の知らせを聞いて,投降し捕虜となる。
戦況はイギリス人に武装解除で終結を迎えた。
内心、ホット下に違いがない。
事あるごとに「イギリス人は紳士てきや」と言っていた。
下士官だった父は将校の部屋付きになり,親切で欲しい物は何でも手に入り、ジャングルでやせ細った父は、捕虜では飽食にふっとって、タバコは新品をわざと捨てる、
あるとき「手榴弾」がほしいと言った。
「それを拾ってすったもんや」
川で爆破させて魚を取りことを告げると、あっさりくれたと感心していた。
捕虜の日本人との信頼関係がなければ、そんなことはありえない話である。
過酷な戦場から開放され日々のんびりし暮らしに帰国の日が迫ってきた。
イギリスの将校は別れを惜しみ、住所を教えろと言った。
そこで木を記念になる物を刻み、裏に多分帰国すると妻と二人が待つ母方の住所を刻んだそうである。
だが父が生存中には連絡は来なかったが、父はその将校に感謝をしていた。
帰りの復員船に心が弾んだが、大切に飼っていた「手乗りサル」現地のビルマ人に上げたそうである。
インパール作戦での8万600人参加で戦死者32000人戦死、ほとんどが餓死、40000人近い兵士が病気気味だったという。それも赤痢、マラリアに栄養失調だったという。
如何に過酷な戦争か窺い知れる。インパール作戦の大きく関与し陸軍のエリートと言われた牟田口中将戦後、その責任を問うことは無かったにせよ、大きな史上稀に見る無謀な戦争の責任は,亡くなって祖国日本の地を踏めず無念の思いで散っていた、兵士の英霊に道義上の責任は免れず。末代までその責を問われるだろう。
父の話は事あるごとにビルマ戦線の地獄絵図のような有様を必至でせめてわが子にだけは伝えたい、そんな気持ちで言い伝えたのであろう。
戦後60年余りを戦争の記憶は薄れて、記憶から薄れ克明に覚えている人も少なくなる一方、風化されつつある。
三 職業軍人と出征
三 職業軍人と出征
奉公に行かされて二十歳で一人前になって故郷といっても河内、摂津は伊丹での経験は父に取りよい経験となって伊丹の酒蔵、花やしきや、宝塚などのシャレタ暮しに接し、昆屋池など自転車で走り回ったが、やはり布施辺りは故郷、そこで家業に関わるのが嫌でフーテンの寅さん状態に業を煮やすした曽祖父は在郷軍人会に頼み、おおさか陸軍刑務所の看守に推薦されて合格と成った。
公務員で秘密厳守で厳格な職業は、身元調査は徹底して行なわれ、母との結婚にも身元調査を綿密に行なわれ、やっと許可が下りたと言っていた。
当時軍国時代の話は事あるごとに父と母は話をしていて何時しかそれを聞いてそれとなくその時代の様子が記憶に刻まれていった。
陸軍の職業軍人としての日々は父には適合し、仕事を無難にこなしていき学歴と文才がないためか、上級試験に受けず後輩が上司になっても気にも留めずに気の会った職が仲間と仲良くやっていたが、軍律さえ破らなければ生活が維持され、結婚しても二、三人の子供そ育て暮らせたものであったが、決して高給取りではなく慎ましやかに暮らしていたといっていた。
特技は剣道で精神力と体力を求められる仕事だけに、収監中の囚人に腕力と強い指導と、気合が要求された。
そう言った基礎と成るものは戦前の徴兵制度によるものと父は日頃から言っていた。
兵役の二年間で国防に関する体力と軍事訓練の全てを国民に教え込み国力を強化するが、国防だけに限らずアジア各地をの派遣の兵士の補充にも欠かせない当時の事情があった。
兵役検査で五段階で甲乙丙は合格、丁はお国のために役立てないと、人目を忍んだ。
富国強兵の時代、日本は急速な発展は何もかも、国の為が最優先だったが、誰もが疑いを持たなかった。
「甲種合格」と父は告げられ家族に
「ようやった」と褒められたものだった。
陸軍の拡張拡大は犯罪、規律の違反も増える。そこに国体を異を唱える反戦、反動に治安維持法に思想犯としての収監の刑務所が必要になっていく中、満州に度々囚人に護送をすることになり、満州にも刑務所の施設に赴任の公募があって、後日談で行かなくて良かった、しみじみ言っていた。
父の看守の仕事の他に、車両の仕事を担当していた。護送車に当時としては花形はサイドカーを乗り、緊急時や所長を乗せ司令部や役所を行き来し交差点もクラクションで赤が青になったり手信号が変ったといっていた。
父の同僚にこんな話もあった、緊急の搬送でサイドカーに横に人を乗せ目的地に着くと、横に乗っていた人が居ないのに気付き、悪道のデコボコ道で振り落とされたのである。
元の道を戻ると道端で落ち込んだ人を発見したと、笑い話で済まされないほど、道の悪さが窺える話であった。
いつでも出動できるように車の維持管理と、分解修理を出来ほどに訓練、自習したがふとした職務中の事故で自動車を乗るのを辞めてしまったそうである。
「つまじきものは、宮使い」と母は何時も言っていた。
官舎〔宿舎〕は所長の家を中心に左右に看守長から看守まで並んでいて、役職と平では段違い、父母の話では刑務所長は東北は八戸出身の上品で若い母は良くしてもらったという。
所長の息子さんが陸軍大学を卒業された時は揃って出迎えたものだそうである、休日は陸軍記念日とか何かにつけ多く今の役所と変わりがなさそうだった。
その内、戦況が厳しくなって来て、戦場は拡大、赤紙(召集令状)が舞い始めた頃、別に公務を主たる者は避ける事はできたが、父は志願兵として戦地に趣く事を決意した。
それも三歳の姉と十ヵ月になった私を残しての出征は非情なものであった。
出征に時には親戚、近所から見送りの人々に見送られ、映画やテレビに出てくるシーンと同じで、再び生きては帰れぬ決意で趣かねばならなかった。
召集令状を逃れるためにずるい者は、仮病や卑怯な手法で免れたものも居ると言う。
大店の一人息子を戦地に出して戦死で跡取りをなくても堪えなければならかった人も多くいた。
父は広島の軍港宇品から戦地に趣いたそうで、二人の幼子では母も見送りにも行けなかったそうだ。
日本軍史史上悲惨なビルマ戦線インパール作戦への出征であった。
敗戦の気配を国民は薄々知りつつある昭和十八年の秋のことだった。
奉公に行かされて二十歳で一人前になって故郷といっても河内、摂津は伊丹での経験は父に取りよい経験となって伊丹の酒蔵、花やしきや、宝塚などのシャレタ暮しに接し、昆屋池など自転車で走り回ったが、やはり布施辺りは故郷、そこで家業に関わるのが嫌でフーテンの寅さん状態に業を煮やすした曽祖父は在郷軍人会に頼み、おおさか陸軍刑務所の看守に推薦されて合格と成った。
公務員で秘密厳守で厳格な職業は、身元調査は徹底して行なわれ、母との結婚にも身元調査を綿密に行なわれ、やっと許可が下りたと言っていた。
当時軍国時代の話は事あるごとに父と母は話をしていて何時しかそれを聞いてそれとなくその時代の様子が記憶に刻まれていった。
陸軍の職業軍人としての日々は父には適合し、仕事を無難にこなしていき学歴と文才がないためか、上級試験に受けず後輩が上司になっても気にも留めずに気の会った職が仲間と仲良くやっていたが、軍律さえ破らなければ生活が維持され、結婚しても二、三人の子供そ育て暮らせたものであったが、決して高給取りではなく慎ましやかに暮らしていたといっていた。
特技は剣道で精神力と体力を求められる仕事だけに、収監中の囚人に腕力と強い指導と、気合が要求された。
そう言った基礎と成るものは戦前の徴兵制度によるものと父は日頃から言っていた。
兵役の二年間で国防に関する体力と軍事訓練の全てを国民に教え込み国力を強化するが、国防だけに限らずアジア各地をの派遣の兵士の補充にも欠かせない当時の事情があった。
兵役検査で五段階で甲乙丙は合格、丁はお国のために役立てないと、人目を忍んだ。
富国強兵の時代、日本は急速な発展は何もかも、国の為が最優先だったが、誰もが疑いを持たなかった。
「甲種合格」と父は告げられ家族に
「ようやった」と褒められたものだった。
陸軍の拡張拡大は犯罪、規律の違反も増える。そこに国体を異を唱える反戦、反動に治安維持法に思想犯としての収監の刑務所が必要になっていく中、満州に度々囚人に護送をすることになり、満州にも刑務所の施設に赴任の公募があって、後日談で行かなくて良かった、しみじみ言っていた。
父の看守の仕事の他に、車両の仕事を担当していた。護送車に当時としては花形はサイドカーを乗り、緊急時や所長を乗せ司令部や役所を行き来し交差点もクラクションで赤が青になったり手信号が変ったといっていた。
父の同僚にこんな話もあった、緊急の搬送でサイドカーに横に人を乗せ目的地に着くと、横に乗っていた人が居ないのに気付き、悪道のデコボコ道で振り落とされたのである。
元の道を戻ると道端で落ち込んだ人を発見したと、笑い話で済まされないほど、道の悪さが窺える話であった。
いつでも出動できるように車の維持管理と、分解修理を出来ほどに訓練、自習したがふとした職務中の事故で自動車を乗るのを辞めてしまったそうである。
「つまじきものは、宮使い」と母は何時も言っていた。
官舎〔宿舎〕は所長の家を中心に左右に看守長から看守まで並んでいて、役職と平では段違い、父母の話では刑務所長は東北は八戸出身の上品で若い母は良くしてもらったという。
所長の息子さんが陸軍大学を卒業された時は揃って出迎えたものだそうである、休日は陸軍記念日とか何かにつけ多く今の役所と変わりがなさそうだった。
その内、戦況が厳しくなって来て、戦場は拡大、赤紙(召集令状)が舞い始めた頃、別に公務を主たる者は避ける事はできたが、父は志願兵として戦地に趣く事を決意した。
それも三歳の姉と十ヵ月になった私を残しての出征は非情なものであった。
出征に時には親戚、近所から見送りの人々に見送られ、映画やテレビに出てくるシーンと同じで、再び生きては帰れぬ決意で趣かねばならなかった。
召集令状を逃れるためにずるい者は、仮病や卑怯な手法で免れたものも居ると言う。
大店の一人息子を戦地に出して戦死で跡取りをなくても堪えなければならかった人も多くいた。
父は広島の軍港宇品から戦地に趣いたそうで、二人の幼子では母も見送りにも行けなかったそうだ。
日本軍史史上悲惨なビルマ戦線インパール作戦への出征であった。
敗戦の気配を国民は薄々知りつつある昭和十八年の秋のことだった。



